〇〇に備えよう

twitterで流れてきてふと感じた事.

正確な文言は忘れたけど,

「放火に備えよう」
だったら色々対策を考えるのに,
「戦争に備えよう」
の時には【戦争はよくない】で終わってしまう.
これっておかしくない?

みたいな内容だったと思う.
また,このtweetに反応して台風に備えるという例を出している人もいた.
ちらっとみた意見では,

「放火に備えるにはどうしたらいい?」
「放火を放棄しましょう^^」

みたいな事をいっている人もいた.
当然日本の戦争放棄の文言を皮肉っているのだと思う.

この放火・台風・戦争に備えるという比較について自分の思った事を書いてみる.

まず,台風と戦争の比較について.

これについては現代においては,前提条件が違うので比較するのは不適当だと思う.
前提条件というより,発生する要因が大きく異なるというべきか.
ご存知のように台風は自然が生み出す.対して戦争は人が生み出す現象だ.
台風に備えるといった時,我々は完全に受け身となる.
身の安全を確保する.食料を買う.避難所を確認するなどか.
戦争に備えるといった時,我々はどう考えるだろう.
軍備を整える.有事の行動を確認する.食料の確保などだろうか.
個人・国家レベルの違いはあるだろうが,自衛・生存の為の行動を取ろうとすると思う.
単純に考えれば台風に備えるのも,戦争に備えるのも身を守る為に行なうという点で同じ方向を向いている.
これは当然の事だが,両者には大きな差異がある.
戦争は防ぐ手だてがあるという事だ.少なくとも私はそう考える.
交渉・妥協・譲歩.
弱腰といわれるかもしれないが,少なくとも武力衝突を避ける道は残っている.
現代においてと書いた理由がここにある.
中世において戦争はおそらく天災と同列のものだったのではないか.
干ばつや大雨などは避ける事はできない.同様に戦争も避ける事は出来ない.
なぜなら,
奴ら(敵・異教徒・蛮族)が我々を襲ってくるから.
奴らを駆逐せねばならぬから.
聖地を奪還しなければならないから.
一見現代でも同じように見えるが,根本的に異なる.
それは政治体系だ.
現代の多くの國では一応は民主主義が取られている.中世とはこの点で全く異なる.
中世の市民(施政者以外)にとって国家の方針はまず変えることはできず,戦争は限りなく天災に近い人災だった.
現代では市民の意志によって国家の方針を変えることも出来る.
それが民主主義の根本だからだ.「奴ら」との協調路線を取るよう方向転換することも出来る.
現実的に難しいことではあっても,この点を否定するのは「私の國は民主主義国家ではありません」と宣言する事に等しい.
現代での戦争は中世での戦争に比べ,圧倒的に人災の色が強くなっている.
この一点のみで台風と戦争の備えを同じ土俵で扱うのは適当ではない.

ちなみに,将来台風を我々が自由に発生させ,消滅させ,コントロールできるようになれば台風も人災と呼べるようになる.この時は両者を同じ土俵で比較できるだろう.いつになるかはわからないが.


放火と戦争.
こちらは両者とも人災であり,備えを比較する事は出来るだろう.
放火されない為には? -> 可燃物を外に置かないor「放火は〇〇の刑罰が与えられます」or「私は反撃する」
放火されそうになったら? -> 放火(未遂)犯を取り押さえるor追い返すor話し合う.
万一放火されてしまったら? -> 消火活動(家・人命の救護)
以上のと問いは放火<->戦争と置き換えても成り立つだろう.
戦争起されない為には? -> 原因を排除or「戦争を仕掛けたら〇〇の制裁が下されるぞ」or「我々は反撃する」
戦争起されそうになったら? -> 相手を打ち倒すor追い返すor話し合う.
万一戦争起されてしまったら? -> 抵抗活動(国家・人命の救護)
放火犯と話し合いは奇妙だが,知り合いによる怨恨が原因なら話し合いの余地もあるだろう.
備えるという意味では1つ目の問いが重要だろう.
人災はその原因を減らす事が一番の対策だ.
原因を排除については,内政干渉だ,ということで無視する事は多々ある.
放火に置き換えれば,庭に何を置こうが家主の自由だ,口出しするな,といった所か.
庭に燃やして下さいと言わんばかりにものを置いていて放火されたら,ある意味で被害者にも責任がある.
当然非は放火犯にあるけど.
戦争を仕掛けて下さいと言わんばかりに要因をまき散らしていて仕掛けられたら,ある意味で仕掛けられた側にも責任がある.
当然非は仕掛けた側にあるけど.

さて,放火と戦争に備えることを同じ土俵で考える事は妥当だろうか.


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